日本の自動車文化はやっぱり誇らしい。スバル360とVWビートルの「類似性」を紐解く

公開日:Posted in コラム by

世の中には「似て非なる物」という物があります。形はよく似ているがどこか違う。全く違う物のはずなのどこかに似ている。その一つが日本人とドイツ人の国民性ではないでしょうか。協調性を善しとし、義理を重んじ、抽象的な日本人と個人主義で、合理性に徹し、理論的なドイツ人、しかし勤勉で努力家で真面目で規則正しい両国民は、他の国の人からは似た者同士に見えるのではないでしょうか。

外見がVWにそっくりなスバル360は非常に興味深い

スバル360

その似て非なるドイツ人と日本人の国民性を象徴してるともいえるのが、両国の主要産業である自動車産業が生み出した名車VWビートルとスバル360ではないでしょうか。巷間ではスバル360はVWを富士重工が参考にして作ったと思われがちですが、スバル360に関する文献や記述を読み、実際にスバル360の開発に携わった技術者の話を聞いてみると、実際にはそういう単純な話ではなかったという事実が浮き彫りになります。

以前、筆者は「幼少期はVWビートルが好きだった」と書いたことがあります。あの愛らしい丸っこいスタイリングはまさに、子供にとっては漫画や絵本に出てくる自動車の絵をそのまま本物にしてしまったようなユーモラスで愛らしい外見で、就学前の筆者はむしろ大人になったらVWタイプ1のカブリオレを愛車にすることを夢見ていたくらいです。

しかし、その一方で気になるクルマがもう一台ありました。それこそ筆者が免許を取って真っ先に愛車として選び、今は軒下でDIYレストアにいそしんでるスバル360です。幼少期の筆者にとって、西ドイツ(当時)の外国車と日本の軽自動車がマークⅡとチェイサー、セドリックとグロリアのように同一自動車メーカーの兄弟車というわけでもるはずがなく、外見がVWにそっくりなスバル360は非常に興味深い、そして不思議な存在でした。

このVWとスバル360、作られた国が全く違うのにそっくりな形をしている、一体その理由はなんなのかという疑問を抱いた瞬間こそ、筆者が自動車の歴史の探求という深淵に足を踏み入れてしまった瞬間なのかもしれません。

やがて筆者は、VWよりも自国に存在するVWとそっくりな360cc軽自動車スバル360にに興味を抱くようになります。そして筆者は小学1年生にしてVWからスバル360に改宗する決意をしました。就学し読み書きを覚え本も読めるようになると、そこからVWとスバル360への探求が始まりました。

とは、言っても当時はまだスバル360のクラシックカーとしての認知度は今ほど高い物でもなく、少なくとも小学生の私が手に出来る範囲内の本ではVWの情報しかありません。私も長らくスバル360はVWを参考にして作られて物と信じて疑うこともしませんでした。ところが中学生の時、クラシックカーイベントで私がスバル360を好きだという事を知ったとあるスバル360のオーナーの方からもらった、桂木洋二著「てんとう虫が走った日~スバル360開発物語」という本を読んで、その認識が一変する事になります。

フォルクスワーゲンタイプ1、通称ビートル・かぶと虫の来歴

ビートル

その本にはスバル360を渇愛していた少年時代の筆者にとって、スバル360について知りたい事のすべてが記されていたバイブルのような本だったと言ってもいいでしょう。そして、スバル360のあの風貌は筆者の予想とは真逆であるという事実を知ります。その本には「開発段階でVWを参考にした」という記述は何処にもなかったのです。

まず、フォルクスワーゲンタイプ1、通称ビートル・かぶと虫の来歴を見てみましょう。VWの生みの親は偉大なる自動車エンジニア「フェルディナント・ポルシェ博士」、そこに史上最悪の独裁者「アドルフ・ヒトラー」が大きく関わっているというのは、カレントライフの読者の皆様には今更説明の必要はない事かと存じ上げます。ポルシェ博士には終生三つの夢があったと言われています。

「レーシングカーを作る事」
「トラクターを作る事」
「だれでも買える大衆車を作る事」

20世紀初頭、ローナー社で若くして既に才能を発揮していたポルシェ博士が、やがてダイムラー社に招聘されます。当時最新鋭の技術の象徴だった自動車が最新高性能と豪華さを競い合っていた時代、レーシングカーやスポーツカーの設計をポルシェ博士に託されるのは自然な事でした。しかし、利幅の大きい豪華で大排気量の自動車の開発を望むダイムラー社に、ポルシェ博士が「1000ccクラスで高性能で低価格な小型大衆車」を作りたいと言っても聞き入れてもらえることもなく社を去ります。1930年12月、シュトゥットガルトにポルシェ設計事務所を設立し、ドイツ内外の自動車の設計を請け負います。

しかし、小型大衆車を生産するというのは容易な事ではありません。技術的な難しさ以上に、大量生産に対応するには膨大な生産設備投資を要します。それでも小型大衆車の構想を練っていた中、1933年ある人物がポルシェ博士の下に小型大衆車の開発を依頼にやってきます。その人物こそ、かの「アドルフ・ヒトラー」でした。

当時ドイツは、ヒトラー政権が絶大な支持を得た真っ只中で、ヒトラーは1000マルク以下で買える小型大衆車を国策で生産するという、国民車構想を打ち出し、ポルシェ博士にそれにふさわしい小型大衆車のオファーを出します。その条件は…。

・維持費が安く経済的
・大人4人が乗車できる
・低燃費
・シンプルで頑丈な空冷エンジン
・エンジンの搭載位置はリア
・100km/hで走行可能

そしてヒトラー自身も、自動車専用の高速道路「アウトバーン」の建設を確約します。この構想にポルシェ博士も賛同し、まさしく自分の望む小型大衆車の構想とも一致し、ナチス政権の強大な資本のバックアップの下、小型大衆車の設計に取り組みます。シャシーはプラットフォーム型のセミモノコックボディ、限られたスペースを有効に使うためのトーションバーサスペンション、ボディは当時流行していた流線形スタイルを取り入れつつ、薄い鋼板でも曲面を与えることで強度や剛性を確保し、鋼鈑の表面積も少なくなるため軽量化にもつながります。

後ろに搭載した空冷エンジン、トーションバーサスペンション、曲面を多用したボディデザインは、当時の技術において自動車を高性能かつ小型化、軽量化し安く市場に提供するのに必須な要素だったのです。むしろ既にポルシェ博士は、合理性を追求すれば小型で高性能で低価格な自動車を市場に提供できるという真理にたどり着いていたのです。

フォルクスワーゲンは軍事転用を目論んだ歴史がある?

VWビートル

1938年5月、ポルシェ博士が考案した「小型大衆車」がお披露目となり、その場でヒトラー自ら「KdFワーゲン(歓喜力行団自動車)」と命名します。「自家用車を所有したいなら、毎週5マルク貯蓄しよう」というスローガンの下、労働者が毎週5マルクずつ歓喜力行団に積み立てし、5マルク貯蓄するごとに領収済の捺印をするスタンプカードが発行され、スタンプがたまったらカードと引き換えに「ワーゲン」が納車されるという制度でした。しかし、翌年第二次大戦が勃発、KdFワーゲンの工場は全て軍用車生産にまわされ、大衆車が作られるはずだった工場は大量の軍用車が作られ、労働者が自家用車を買うために積み立てた金は全てドイツ軍の戦争資金となります。

また、リアエンジンレイアウトの空冷エンジンは車体が軽く、横転しても兵士が数人集まれば起こすことができ、物資に乏しい砂漠の戦場では冷却水の必要がなく部品点数の少ない空冷エンジンは重宝され、敵陣に突撃する時にエンジンが敵弾を被弾しにくいというメリットを発揮します。第二次大戦時のドイツ軍の空冷エンジン車の活躍は、後年日本の本田宗一郎が空冷エンジンに固執する理由になった事でも知られています。

実は、フォルクスワーゲンは元々、軍事転用を目論んでヒトラーがポルシェ博士に設計させたという歴史があったのです。フォルクスワーゲンと同時に軍用トラクターの設計も依頼され、やがて戦車の設計も請け負う事になり、皮肉にもポルシェ博士は自分の念願を果たすつもりが、知らず知らずのうちに戦争協力者となってしまい、終戦後「戦犯」として拘束されフランスに投獄されます。

息子のフェリー・ポルシェ達の尽力もあり、博士は保釈され1948年ようやく念願のフォルクスワーゲンの生産が開始、博士は路上を走る無数のフォルクスワーゲンを見て歓喜の涙を流したとも言われています。その後フォルクスワーゲンは世界中に輸出されドイツの外貨獲得に大いに貢献し、ドイツの戦後復興の立役者となり、その後何十年も形を変えないまま生産が続けられ、今も世界中に愛好者がいる名車となりました。

スバル360を製造した富士重工業のルーツ

スバル360

一方スバル360はというと、スバル360を製造した「富士重工業(現スバル)」の前身はドイツ同様、敗戦国の日本でかつて戦闘機を製造していた中島飛行機がルーツで、当時、中島飛行機のエンジニアで天才と言われ、艦上偵察機「彩雲」の誉エンジンのターボチャージャーのレイアウトを担当した百瀬晋六がスバル360開発に大きく関わっています。しかしGHQの占領政策の一環で飛行機製造は禁止され、中島飛行機は財閥解体で分社化されます。戦後の動乱期は飛行機のエンジニアたちは鍋や釜等の日用品を作り凌いでいたとい言います。しかし戦後の動乱期が収束し、戦後復興に向けて輸送機器の需要が出てくると、分社化されたそれぞれの会社がかつてのノウハウでスクーター、バスボディ、エンジンの生産を開始し、自動車産業へと再スタートを図ります。

しかし、スクーターやバスボディ製造では会社の経営の先行きも安泰ではないと感じた旧中島飛行機系企業は、今後自家用車の需要が見込めると判断し、本格的乗用車生産を目論みます。そして分社化された会社のうち5社が合併し「富士重工業(現スバル)」が誕生、戦後バスボディ設計で名をはせた百瀬晋六がリーダーとなって、1500ccのP-1型という小型4ドアセダンを開発、分社化された中島飛行機系企業の5社が合併し、本社を入れると6社から成ることから「6」にちなんで六連星の昴星からスバル1500と命名されます。

しかし、当時の富士重工業の資本力では1500ccの小型セダンを量産するための工作機械の導入と工場建設、販売店とアフターサービスを構築をするのは無理と判断された銀行から融資を断られ、市販を断念します。むしろ銀行だけでなく当の開発者も「富士重工の資本能力ではこのクルマの市販は無理だ」と感じていたという証言もあります。

スバル360のデザインは必然だった?

スバル360

あわせて読みたい記事

この記事が気に入ったらカレントライフに「いいね!」しよう

最新情報はFacebookページでチェック

この記事の筆者:鈴木 修一郎

愛知県名古屋市在住。幼少期より自動車が好きで、物心着く前から関心の対象はニューモデルよりもクラシ...